『真のキリスト教』を訳し終え、発行を迎えて

著作『真のキリスト教』について、これまで会報8号で出版に向けて取り組み始めたこと、上巻の完成が10月頃(そうなり、その祝賀も行ないました)、下巻の完成が3月頃と述べました。
会報9号では本書が私にとって「出会いの書」であったこと、また「主の再臨の書」であることなどに触れました。ここでは、①あとがき(全文)、②翻訳までの経緯、③感想を述べます。

1 下巻の「あとがき」から

『真のキリスト教』は新しい教会へ導く
スヴェーデンボリの著作により、特に『天界の地獄』によって、死後の世界がどのようなものか知ることができます。霊界から自然界への流入を知ることにより、いろいろと有益な教訓を得ることができます。
けれどもその書だけからでは「神」について、広くは「宗教」について知ることができません。
本書は真の「神概念」から説き始め、キリスト教の礼典である洗礼・聖餐にまで触れ、その意義までも扱っています。ここからキリスト教の概略を得ることができると思います。それでも、著者スヴェーデンボリがほんとうに言いたかったことは最終章の「新しい教会」でしょう。上巻の「緒論」とした「主のしもべ」の最後に「主は……新しい教会を設立される……この役目を私に委ねられた」(779番)とあります。この召命を自覚し、それで本書の著者名スヴェーデンボリに「主イエス・キリストのしもべ」と併記しています。すなわち、主が再臨し、起こされる、と予言された「新しい教会」の教えの礎となるものは本書です。
さて、本書を読んだ人たちから、新教会が実際にこの世で生まれました。スヴェーデンボリの没後十余年にイギリスで新教会の最初の礼拝が行なわれました(1787年4月19日)。その後、アメリカに導入され、現在では「ジェネラル・コンヴェンション」と「ジェネラルチャーチ」の二大組織となっています。「まえがき」でも述べましたが、本書の最初の和訳は1955年に「ジェネラル・コンヴェンション」系の出版組織「Swedenborg Foundation」の援助で出されました。ここはこうしたことを述べる場ではないので、これ以上の歴史な事柄については割愛します。

 新教会へと導かれた私の経緯
個人的なことを長々と述べることをお許しください、私個人の経験であっても、何かの参考になるかと思います。すなわち、「本書は確かに「預言の書」であった。予言どおりのことが起こっている」と実感したからです。本を読み、知るだけでなく体験すること、別の言い方をすれば「真理を知るだけでなく、その真理に基づいて生活すること」が重要だと思います(このことをスヴェーデンボリは再三述べています)。
私は「著作」に出会い、すぐに半年ばかりかけて通読し終えた最初の書が「真のキリスト教」でした(37歳)。キリスト教については何も知りませんでした(この後、近所の改革派の教会に数年通いました、そこでいろいろなことが学べました)。他の「著作」も読み続けていましたが(この期間が六年半ほどです)、年号も平成に改まった新年早々、上井草の静思社を初訪問しました、「ずっと翻訳を続けている柳瀬芳意はどのような方なのか、相当高齢ではなかろうか、会うなら今のうちだな」といった気持からです。また「独学もこれまでだな、そろそろ外に目を向けよう」とも思っていました。その時、「日本新エルサレム教会」があることを知り、貴重な教会仲間にも出会いました。その三月に洗礼を受け、その後、一年ちょっとの間、当時執筆中であった『黙示録講解』の校正のお手伝いなどしていました。その後、ある理由で柳瀬から去りました。しかし、この新教会から個人的な勉強からでは学ぶことのできないいろいろなことを知りました、英訳書どころか、ラテン原典までちゃんと出版されていたことなど多々あります。
1990年の正月から新たに「ぶどうの木集会」が始まり、そこに出席し、これは形を変えながら、現在までも続き、それ以来、私は変わることのないその一員です。「ぶどうの木集会」はジェネラルチャーチを日本に導入した長島達也を指導者とするある種の教会でした。その年の秋、ジェネラルチャーチのキング主教が初来日されました。朝、私が運転して、送迎する車の中で、キング主教の人格に心動かされた妻は、付き合うだけのつもりであった集会で、私と一緒に洗礼を受けました(すなわち、人をひきつけるものものを持っていました、私は再洗礼です)。ここで、「これが新教会だな、この新教会と結ばれた」と実感できました。
私にとって、求めていた「真理」がスヴェーデンボリの「著作」であり、その中で予言された「新しい教会」が「ジェネラルチャーチ」だったのです。

ジェネラルチャーチでの著作『真のキリスト教』の位置づけ
「主はご自分の再臨を「著作」の中でなされた」——これは他のキリスト教会の人から見れば、異端そのものです。けれども、これが「新教会」のまさに根幹です。本書を読めばそのことに気づきます。主の予言された「新しい教会」が実現したものと思えるこのジェネラルチャーチでは『真のキリスト教』をどのように位置付けているでしょうか。
「ヨハネ福音書」に「ヘブル語、ギリシア語、ラテン語で書かれていた」(19・20)とあります。これをヘブル語で書かれたものを「旧約聖書」、ギリシア語で書かれたものを「新約聖書」、そしてラテン語で書かれたものを「著作」と見なしています。すなわち、スヴェーデンボリの著作(とりわけ『真のキリスト教』です)を「第三の聖書」とします。従来の「みことば」の観念からすれば、とんでもない異端です、でも、これを新しい啓示とするのが「新教会」です。私はこれを肯定し、それでジェネラルチャーチの会員です。
「著作」をどのように受け止めるかによって、いろいろな生き方や教会があるでしょう。でもまずは、「内なる教会」です、すなわち、各自の心の中に新しい啓示を受け入れなければ何も始まりません。それから「外なる教会」です、そして、この外なる「形」は千差万別でしょう。既成の宗教団体に所属していても、心で「新しい啓示」を受け止めて、それに基づいて生活するなら、その人は「新教会の人」と思えます。

謝辞と願い
六年前にスヴェーデンボリ出版を立ち上げて以来、新教会の多くの方々から期待され、励まされながら、ここで、本書を出版でき、このことをその方々にお礼申し上げます。特に組み版の労をとっていただいたスヴェーデンボリ出版社長の林道夫氏、校正していただいたジェネラルチャーチ東京の栄世一師、また日頃、私を支えてくれる妻の美恵子に、そしてまた、だれよりも、こうして順調に出版できたことを主に感謝いたします。
本書『真のキリスト教』を読むことから、少しでも多くの方が「新教会の人」となることを願っています。そのきっかけとなれたなら、訳者としてこの上もない喜びです。  2016年3月 鈴木泰之

2 翻訳までの経緯

いつ頃から、私が本書を翻訳しようと思い始めたか、見当をつけてみてください。
柳瀬訳『真のキリスト教上下』入手:83年10月(36歳)
長島訳『真のキリスト教上』入手:88年5月(41歳)
長島訳『真のキリスト教下』入手:89年9月(42歳)
英訳『真のキリスト教』入手:89年9月(42歳)(これは代々木のアルカナ出版で、SS版)
(英訳書についてはその後、Foundation版も入手:90年4月、チャドウイック訳は94年4月)
ラテン原典『Vera Christiana Religio』入手93年9月(46歳)

ここでラテン語の勉強を少し振りまで返れば
研究社『羅和辞典』入手:84年10月(スヴェーデンボリの著作はラテン語で書かれている)
ドール博士の文法書『スヴェーデンボリのラテン語』入手:91年8月(これはその後、翻訳して出版した)
小林標『楽しく学ぶラテン語』入手:93年12月(これは私にとって最良の教科書) チャドウイック『レキシコン』入手:94年5月(47歳)(この辞書に出会って、私にも原典を翻訳できると思った。これはその後、約10年間かけて翻訳し、2011年10月に出版した、64歳)
(50歳代で一時、日本新エルサレム教会で活動していた頃、本書(柳瀬訳)の改訳の話しが持ち上がり、英訳書から翻訳し始め、聖書の全引用文を訳したことがあった。そこまでで中断)
ネット上の原典講読の『真のキリスト教』の開始は2013年7月(66歳)、終了はこの2月。
出版に向けて取り組み始めたのは会報8号でお知らせのように昨年3月から。  以上

3 感想

スヴェーデンボリ出版設立以来、その大きな目標の一つであった、また私自身70歳前後には本書を本書を世に出したいと思っていたことが達成できたことはうれしいです。
途中、上巻の発行日がちょうど故熊澤牧師の一周忌となったこと(熊澤師が助け、喜んでくださっている)、また下巻の発行が来たる5月5日となり、ここで予定している祝賀会に「アジア聖職者会議」に参加される牧師の方々に臨席していただき、祝していただけることに、縁を感じます。
私は本書に「特別な力がある」があると思っています。不遜ながら、日本の新教会の発展に必ず役立つでしょう。

 (訳者・鈴木泰之)『SPSC会報』第10号に掲載

訳語・用語の研究ーBishopの訳語は? Swedenborgの名前は?スヴェーデンボリ

Bishopの訳語は?

私たちは「主教」  これは訳語というよりも用語、またラテン語でなく英語の問題です。  『コロニス』(『真のキリスト教の増補』)の17番に、人間に「頭」「身体」「足」があるように教会にも三つのものがあると書かれています。すなわち、Prima、Antistites、Faminesです。ジェネラルチャーチでもこれを取り入れており、それぞれ英語でBishop、Paster、Ministerとしています。
さてbishopは〖プロ〗監督、〖ギ正教・英国国教〗主教、〖カト〗司教…〖仏教〗僧正とあります。これ以外の新しい訳語をつくることも考えられますが、従来の訳語を使うのが普通でしょう。さて私たちはどの訳語を用いればよいでしょうか。もう少し説明すれば、プロテスタント教会では従来「監督」を使っていましたが、今では一部の派を除いて使われなくなりました。聖職者の間の階層制度をなくしたのが主な理由です。それで、牧師を任命できる権限としての監督はなくなり、今では聖職者会議の議長がその任にあたっているようです。
新教会は最初イギリスで発生したこともあって、そこでは英国国教会[聖公会]の様式を多々取り入れています。すなわち、ジェネラルチャーチでも祭壇を設け、ひざまずいて祈るなど行なっています。それで、その聖職者の名称としては「主教」がふさわしいものとなります。なお、司教はカトリックで使われている言葉なので、これとは別とした方がよいでしょう。
(このことはここで出版する『新教会の特殊性』の著者デ・チャームズ主教の「主教」について説明しておくのがよいと思ったからです、なお日本でジェネラルチャーチが広まったのは「アルカナ出版」が設立されてから1990年に6代目のキング主教が来日したあたりからです)

 Swedenborgの名前は?スヴェーデンボリ  

従来、スウェーデンボルグが使われていました(今でも)。だれが、いつ使い始めたか、私は知りません。ただ、その根拠は「英語読み」からでしょう。というのは、ヨーロッパ言語では「w」は通常「ヴ」と発音するからです。それで国名スウェーデンは正しく発音すればスヴェーデンです。  さて、地名や人名は現地音で現わすようになって久しいです、例えば地名「ヴェニス」は「ヴェネツィア」、人名「モハメッド」は「ムハンマド」などなど。

(鈴木泰之)『SPSC会報』第7号に掲載

訳語・用語の研究ー単数と複数の違いについて

現在『スヴェーデンボリ用語辞典』に取り組んでいます。そこで気づいたことがこの記事を書くきっかけです。日本語では、ある言葉が単数であるか複数であるかをそれほど意識しません。単数・複数の違いは文脈からわかるようになっています。そして代名詞なら、「それ」と「それら」また、「彼」と「彼ら」のように、また一部の名詞なら「山」と「山々」、「木」と「木々」などで表わしてその違いを示すこともありますが、通常は「犬」といえばすませて、「犬」か「犬ども」の区別はしません(というよりも「犬ども」と言えば、別の意味合いを持ってきます)。
ところが『用語辞典』では見出し語が異なっています、すなわち「善」の見出し以外に「善(複数)」の見出しがあります。これは、「真理」や「快さ」等々でも同じです。

なぜ、見出しが異なるかといえば、数が一つか多数かではなく、意味する内容が異なるからです! 上記の「別の意味合い持ってくる」例としては善(bonus)の複数(bona)には「善行」以外に「財産」の意味もあります。
一般論を述べます。この例のように単数は抽象的な内容を表わします(性が〝女性〟の場合は特にそうです)。英語なら不定冠詞「a」をつけるところでしょう。ところが複数は(それも〝中性〟の場合)個々の「具体的な事柄」を表わします。善でいえば個々の「善行」です。善が具体化されたものです。もう一つの例として形容詞「快い」をとれば、中性複数の実詞なら「愉快な事柄・楽しいこと」などを意味します。「美」が複数なら「美しいもの」です。
それで訳すときは、単数なら「善」のままですが、複数の場合「善いこと・善いもの」などとして、より具体的ものを指していることがわかるようにしなければなりません。
なお、『用語辞典』では、「真理(複数)」と、ある語の後ろに複数を付けて表記をすることにしました。

 (鈴木泰之)『SPSC会報』第6号に掲載

訳語・用語の研究 霊界と霊たちの世界について

原語では霊界がMundus Spiritualis、霊たちの世界がMundus Spiruumです。mundusが「世界」、spiritualisが形容詞「霊的な」、spirituumはspitus「霊(「息」などの意味もあります)」の複数属格で「霊たちの」です。  

それで「霊的な世界」⇒「霊界」となり、もう一つはそのままの訳です。  「霊界」は、この世・自然界に対して、総称として使われます。「あの世」とも言えます。その内訳は天界、地獄、それと「霊たちの世界」です。  

「霊たちの世界」は、(死んで)霊界に新たに到着した霊が連れて来られる世界です。「精霊(せいれい)」と言う言葉があり、その意味は「死者の霊魂。肉体を離れた死者の魂」(『大辞林』)なので、この言葉を使って「精霊界」と訳すことも可能ですが(鈴木大拙訳・長島訳)、「せいれい」と言う言葉、また「霊界」に一字加えた「精霊界」は、まぎらわしいこともあり、わかりやすく(と思います)、「霊たちの世界」としています。

(鈴木泰之)『SPSC会報』第5号に掲載