『用語辞典』に取り組んでみて、わかったこと

翻訳者 鈴木泰之

 昨年暮れに『用語辞典』が完成し、その 「試供版」 をクリスマス礼拝に参加さ れた新教会の皆様に提供することができました。その「試供品」という意味につ いては「今後の出版について」をご覧ください。ここではその「訳者まえがき」の 一部を以下に紹介いたします。

1.『用語辞典』に取り組んで、わかったこと


「このようなものがあれば便利であろう」といった気分だけで翻訳を始めました が、途中でいろいろと学べました。しかもこのことは極めて重大であって、私の 翻訳の根本をゆるがすほどのもの、すなわち、これまでの翻訳を見直さなければ ならなくなったほどのものです。以下に二つだけ述べます。

(1)「単数」と「複数」の違い
日本語には、国々、山々、人たち、諸外国といった複数を示す表現がありますが、 通常は単に数の多いことを意味するだけです。それで例えば単数で「真理(verum)」、 複数で「真理(vera)」とあっても、後者を特に「諸真理」とするにしても、通常、「真理」として訳しておいて、それほど違和感がありません、というよりも、単数 と複数の違いが「数の違い」だけであって、両者を特に区別しないからです。日 本語の特性といえます。別の言い方なら、日本語に単数と複数の違いとして、一 般的で明確な表記法がないので(これは日本語にこの概念が希薄であることを意味し ます)、単数形だけで用がたります。

しかし、この『用語辞典』を訳していて、単数と複数では 「見出し」 が異なっ ていることに気づきました、すなわち、その内容(概念)が異なるのです!

「真理」を例とします。「真理」と「諸真理」はどこが違うでしょうか?(日本語で)普通に考えれば、単に数が多いのが「諸真理」(すなわち複数)としか思いません、 しかし、決定的に異なります! これは「抽象的なもの」と「具体的なもの」の違 いともいえます。
「花」で言えば、単数の「花」は「花なるもの」という抽象的な概念を意味します。
「高嶺の花」「花の乙女」と言うときの「花」です。「花々」と言うと、(数が多いこ とも意味しますがそれ以上に)抽象性が薄れ、「バラ」「桜」などの具体的な花が思い 浮かびます。この違いです。真理と諸真理なら、抽象的な真理(単数)と具体的な真理(複数)の違いです。

日本語にはこの違いをうまく表現する方法がないでしょう、それで、このことを表示するために本書ではそのことばの右肩に*を付けることにしました。そこで「用語 *」とあれば、複数の「用語」を意味する、すなわち、具体的な個々の「用語」を指しているとわかります。

しかし、これよりももっと重要なことがありました、それが語順の違いです!

(2)語順の違いは意味の違い
ラテン語は語順は自由であり、ある語がどこにあっても意味は変わらないとさ れています(余談ながら英語は語順が重要な言語です、「熊・食う・人間」と「人間・食う・ 熊」ではまったく意味が違います)。

ところが、スヴェーデンボリの著作では語順が重要となります、繊細な事柄を 語順の違いで表現しているからです 。

「著作」の読者は「天的な霊的な~」や「霊的な天的な~」の表現をしばしば見 かけたと思います。このような語順の違いが「著作」の中に数多くあります、こ れをどのように理解されましたか? 例えば 「霊的天的な王国」 と 「天的霊的な王国」、「霊的天的な天使」 と 「天的霊的な天使」 です。「どちらも大して変わりない だろう」と思っていませんか? でも、大多数の人は、「変わりはあるのだろうが、 どのように異なるのかよくわからない」といったところでしょう。私もそうでした。

まずは日本語で考えてみます(日本語自体に厳密ではない部分がありますが、「著作」 が語の順序を厳密に守っているかぎり、それに即して、訳文で日本語の語順を厳密に使う ことがその基盤または受け入れる「面」となるからです)。

「近くて遠い親戚」と「遠くて近い親戚」 の違いは(ちょっと例がよくないかもしれ ませんが)何でしょうか?

このように「形容するもの」(形容辞)が二つある場合(あるいは三つのこともありま す)、その語順で何がどう異なるのかを問題としてみます(実はこの考察の発端は「天 的な霊的なもの」 と「霊的な天的なもの」の違いでした)。

このことについて、私は “ 日本語の形容辞は「主体」の「遠いところ」から「近 くのところ」あるいは「外面的なもの」から「内面的なものへ」向かって、付け られる、と思いました。

すなわち、この例では「近いところに住んでいるが、気持ちは遠い親戚」、「遠 く離れていても心は親密な親戚」といったニュアンスです。

日本語では上記のように「形容辞(遠い)+「形容辞(近い)+ 「主体」 の語順ですが、 ラテン語では 「主体」 +「形容辞(近い)+「形容辞(遠い)」の語順となります。(前 から後ろへ)具体的には Angelus coeleste spilituale なら「霊的な天的な天使」と 訳 す こ と に な り ま す 。(後 ろ か ら 前 へ 「) 近 い 」 「 遠 い 」 と 説 明 し ま し た が 、 こ れ は 日 本語で「小分類(範疇)」と「大分類(範疇)」と言い換えることもできます。これは「住 所」の表示と同じです、すなわち、日本語では「東京都、東大和市…」としますが、 英語表記では「…東大和市、東京」のように 「近いもの(小分類)」 から「遠いもの(大分類)」へ向かいます。

ここで「天的な霊的な天使」と「霊的な天的な天使」について説明しておきま す。天界は三つに大分類されます。すなわち「天的」「霊的」「自然的」な天界です。 そしてそれぞれに天的な王国と霊的な王国があります、これが小分類です。そこで「天的な霊的な天使」は「天的な(天界の中の)霊的な(王国の)天使」です。

このままではよくわからないでしょうから「最大の人(maximus homo)」で説明 します。天的な天界は「最大の人」の頭部に対応します。そのうち、「首」に 「天的な霊的な天使」 が対応します。この天使たちが霊的な天界と伝達を持ちます。ま た、霊的な天界は「最大の人」の胴体と腿(もも)に対応します(なお「自然的な天界」 はひざから下の足の部分です)。「霊的な天的な天使」は「最大の人」の胸部に対応し ます。これが天的な天界と伝達しています(なお胸部から上の部分を 「高い天界」 その 下の部分を「低い天界」と言うこともあります)。

ついでに 「神的真理(Divinum Verum)」 と 「神的な真理(Verum Divinum)」 につ いて述べておきます。このように原語では、二つの主格の言葉の語順が前後して います。ラテン語は、基本的に語順は「主」+「従」となります。それであえて その違いを述べれば Divinum Verum は「真理」のうちの「神的なもの」であり、 Verum Divinum は「神的なもの」のうちの「真理」となります。これをそれぞれ 「神的真理」(これは「神の真理」とも訳せます)と「神的な真理」としています。「な」 が入るだけの一文字の違いなので、訳語をどうするかは今後の課題でしょう。

2.「用語」と「訳語」について、雑感

ここで考察したように「用語」 と 「訳語」 は裏腹(となり合せ)です。すなわち、 正しく厳密な用語が定まっていなければ、思考を深めることができません。しか しその用語は訳語がしっかりと定まったものでないあやふやなものとなります。 用語を上部構造、訳語を下部構造(インフラ)と見なすことができます。そしてこ のインフラ整備は上部構造を見据えてなくてはできません。そしてここで「用語」 を定め、その用語から、再度、私が学んだように、訳語を見直すことが求められ ると思います。

現在、訳語はまだまだ定まっていないでしょう。例えば、『真のキリスト教』の 各章末の「霊界での体験談」はどのような訳語がよいのかわかりません、それで 「メモラビリア」 と音訳しています、「メモ」と訳すのは論外ですが、「説話」や「記 憶すべき事」と訳してはその真意を伝えているとは思えません。いずれ、研究が 進み、よい訳語が見つかるでしょう、あるいは、これまでにない新しい概念なので、 明治初期のように 「造語」 が必要となるかもしれません。これはプロプリウムで もいえます(ただ、この頃、英訳ではプロプリウムと音訳しているようです)。この『用 語辞典』が 「辞典」 としての役立ち以外に、こうした研究の一助となれば訳者としてうれしく思います。